憶えているのは、痺れたように動かない身体と、逸らせない視線。

目の前30cmくらいのところにある彼女の顔はじっとこっちを見ていた。薄い黄金色に澄んだその瞳には一かけらの警戒心すら見当たらなくて、幼い子供のようだと思った。




センチメント




夏本番までにはまだ少しある、五月の半ば。けれど遮るもののない晴天の空から届く日差しは強くて、その季節にしては暑い日だった。

あれはどういうはずみだったのか。いつもの如く縁側で二人、何か他愛もない話をしている最中、ふいにアンナがオイラの顔を覗き込んできたんだ。今思えば、周りからは常に「ユルイ」と評されるオイラの生返事に業でも煮やしたのかもしれんかった。


「葉」


責めている風でも問い掛けている風でもなくただ一言だけを発して、アンナはオイラをじっと見た。
明るい栗色をした彼女の髪。そこに反射した日の光がキラリ、とオイラの目を射る。鼓動が一度、大きく跳ねた。

それはまるで、日常の中に突如として現れた落とし穴みたいだった。普段通りにまったりしていただけのオイラは、だから、落ちた事にもすぐには気付かんかった。
身体は麻痺してしまったように動かせなくて、呼び掛けられているのに返事もできず、オイラは目の前の許婚の顔を無言のまま見つめ返した。

「――よう?」

二度目は僅かに語尾が上がる。アンナの唇がゆっくりオイラの名前を形作るのを、スローモーションのように見た。それから、やっと理解した。この身体が動いたなら、オイラはどうしたいと思っているのかを。


アンナの事を自分の人生のパートナーだと認識したのは、比較的早くの事で――守ってやりたい、楽にしてやりたいとばかり考えていた筈なのに、いつの間にかオイラのほうが救われているって事にはすぐに気付いた。
特殊な境遇に育った者同士の理解は深く、年に数日しかない彼女との時間はオイラを癒し支えてきた。
既に、もう無しにはやっていけないくらいに、アンナの存在は確実にオイラの世界に組込まれていて。だから将来、彼女と結婚するって事には何の違和感も感じていなかった。

上京したアンナと"炎"で一緒に暮らすようになってから、男女間のそういう事を全く考えなかった訳じゃ勿論ないが、でもまだ現実味を帯びた感覚じゃなかった。気心の知れた「幼馴染み」との生活はそれだけで心地の良いものだったから。


だから、あんなにはっきりと意識したのは、この時が初めてだったんだ。

それまでのオイラを内側から破るようにして顕れた衝動。身体の奥から突き上げてくるみたいに感じられる熱。優しく暖かいだけじゃない、痛いくらいの感情。何時だって迷いなくオイラの味方でいてくれる、この少女に。

――触れたい。

白く細い身体を引き寄せて、抱きしめてみたいと思った。そうして、閉じ込めた腕の中で口づける――
鼓動がうるさいくらいにオイラを急かしていた。


小さく息を吐き出すと、やっと緊縛が解けて腕を動かす事ができた。それでもまだ自分のものじゃないかのような鈍った感覚のまま、彼女にのばす。

「アンナ…」

肩に届いた手に少しだけ力を入れて自分のほうへと寄せると、アンナの目が驚いたように一瞬見開かれた。

「?…」

「…え、えぇと、その。…オイラ…」

緊張と焦りとで上手く回らない舌を懸命に操って、伝えようとする。
不思議そうにこちらを見つめるアンナの瞳は、それでも、例えばここでオイラがどんな無茶を言い出したとしても受け入れてくれるんじゃないかと思える程に優しく淡く光っていて、頭がくらくらした。

「…その。今更、なんだが…、…オイラは、アンナの事が」

舌がもつれる。ちゃんと言葉にしないと。そう思うのに、身体がフライングして距離をゼロにしようと勝手に動き出してしまうのを止められない。

いくらお互いに許婚同士だと認識していても、急にこんな風に迫るなんてアンナは嫌かもしれない…とか、そもそも彼女は本当に今でもオイラの事を好いてくれとるんだろうか、一緒に住むうちに情けない所も色々見られとるだろうし、実はもう愛想を尽かされてるんじゃなかろうか…とか。幾つもの考えが頭ん中をぐるぐると回ったけれど、どれもオイラを押しとどめる事ができんかった。

息がかかる距離まで近付くと、アンナの髪から微かに甘い匂いがした。


「…アンナの事が、とっても」

好き、と動かそうとする唇はもうアンナのそれと触れそうなくらいに近くて。誘惑に抗おうとする最後のかけらを手放した瞬間、眼前のアンナがそっと目を閉じてくれたのを確かに見たような気がする。




「――おぉい、葉!居るか〜?」


あまりにも唐突に。静けさを破って無遠慮な声を響かせたのは、東京で出会った、オイラ達と同じくシャーマンである友人のうちの一人だった。

「「!!」」

オイラは閉じかけた瞼を全開にして固まり、アンナは、ぱっとオイラから離れると、まるで何事もなかったかのように玄関の方向を睨んでいた。

「ちょ、お兄ちゃん!!人の家なんだから、勝手に上がっちゃ…!」

「いいだろ別に。どうせ、この家はいつだって霊達が好き放題に出入りしてるんだからよ」

騒がしくこちらに近付いてくる彼とその妹の気配が、あっという間に場の空気を元へと戻す。
彼らの来訪は、いつも気分を浮き立たせてくれる歓迎すべきものだった筈だが、この時ばかりは少々恨めしく思った。

ちなみに、ほどなくしてオイラ達の前に姿を見せたホロホロの第一声が、聞くも憐れな悲鳴であったのは言うまでもない。


「…あたし、部屋に戻るから。晩ご飯の支度ができたら呼んで頂戴。」

まだ固まったままのオイラの肩をぽんと叩きながら、アンナが隣りをすり抜ける。
焦って見上げた彼女の横顔はほんの少し朱く染まっているように見えて、オイラは改めて自分のとった行動を思い返して汗をかいた。

再び速まろうとする鼓動と格闘しながら。一瞬だけだが確かに触れ合った唇の感触を思い返して、ずっと忘れられないだろうと思った。

知ってしまった新たな感情には名前すらつけられない。
食事の支度ができたって、どんな顔をして呼びに行けばいいのかなんて見当もつかなくて。晴れ過ぎている空を見上げるとオイラは深く息を吐き出した。





* * *





「――何か、別の事を考えてるでしょ?」

重ねるだけのキスを交わした後。ふわりと瞼を上げて、アンナがオイラの顔を覗き込む。

「あたし達の目の前で余所の女の事考えるなんて、いい度胸してるじゃない」

言いながらオイラを軽く睨む彼女の瞳は、記憶の中のあの日と変わらず魅惑的な色に澄んでいる。

オイラは、彼女の隣りに置かれた揺籠に目をやって、中の小さな寝顔を確認してから、改めて妻の瞳を見つめ返した。

「――いんや。オイラが考えてるんは、いつだってアンナの事だけだぞ?」

少し余裕をもって囁いてみたら、アンナは見る見る頬を染めて悔しそうに視線を逸らした。そういう彼女のしぐさにオイラは毎回背筋をぞくりとさせられるんだが、アンナにはなるたけ悟られないようにポーカーフェイスを作る。
この技術においては今のところアンナよりもオイラのほうが上手いらしく、彼女は赤い顔でそっぽを向くと、「アンタずるいわ」と聞き慣れた台詞を呟いた。


――天気があの日みたいに晴れていて、引き寄せたアンナの瞳がやっぱりオイラを肯定してくれていて。だから、つい思い出したんよ――

オイラが独り言のつもりで言うと、アンナからは懐かしむような調子で返事が返ってきた。

「――あの頃は、まだアンタも可愛らしかったのにね。」

「お、憶えとるんか?!」

「大きな声、出さないで。花が。」

言われて慌てて口を押さえたが遅かったらしく、アンナはぐずつき出した息子のほうへと向き直ってしまう。

「…よしよし。いつまで経っても落ち着きのない父親で困るわね、花。」

アンナが、オイラにかけるのとはまた違う優しい声で花をあやし始めた。

完全に背を向けられて、オイラの胸の中で何かが燻り始める。これもまた、最近覚えた新たな感情の一つで――その、大人げないとは思うんだが――我が息子への嫉妬。

あれから、オイラは随分と幾つもの新しい気持ちを知った。これからだって、まだまだ彼女らに教えてもらうのだろうと思うと、楽しみでならない。
だからオイラは、この大切な存在達を傍でずっと守っていけるように、もっと――強く。



「――最大のライバル[恋敵]出現、だな」

言の葉に、身に余る幸せへの感謝を込める。オイラは、アンナに聞こえないように小さく呟いて、それから、未だ泣き止みそうにない息子のもとへ向かって立ち上がった。







キス未満の接触。初々しい感じが表現できてれば…いいな…(無理)。
タイトルはESCADAのSENTIMENT[感情]。


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