DULL



「――あたしのこと、すき?」

ぽつりと、まるでうわ言のような声音でアンナが呟いた。オイラに向けられた瞳は大きく澄んでいて、何だか普段より少し幼く見える。

「…おお。何だよ、珍しい」
「だって、あんまり聞いた事ないから」
「言わんくても分かるだろ。…知ってるくせに」
「そういうのを男の怠慢って言うのよ?子供も独り立ちして、定年退職した次の日に離婚届突き付けられるタイプだわ」
「…またえらく話が飛躍するんだな…」
「…そう感じてる時点で、もう危機感が足りてないのよ…」

『いいから早く言いなさい』と急かされて、オイラは苦笑する。待ち構えるアンナの視線に酷く気恥ずかしい気持ちになったから、素早く囁いて、反応が返って来る前に彼女の唇を塞いだ。
少し前から何度も繰り返しているその行為のせいか。アンナの唇に自分の温もりを感じた。




今日のアンナは何処かがおかしい。何がどうって訳じゃないけど、朝からずっと。
しいて言うなら、ちょっと元気がない。呼び掛けても返事が遅いし、ビンタだって不発。冷蔵庫の漬物が賞味期限切れだと分かった時も、溜め息を一つ漏らしただけだった。

体調が悪いのかと思ったオイラは探りを入れてみた(彼女は自分から「具合が悪い」というような事は絶対に言わない)んだが、どうもそうでもないらしく、執拗に額に触れようとして軽く蹴飛ばされた。
ストレスが溜まっているのかとも考えて(夢見の悪い日が多い彼女は、ああ見えて慢性の不眠症なのだ)、気分転換にと散歩に連れ出してもみたんだけれど、これも効果はなかったようだ。

相変わらず、何処か上の空なまま。

そりゃあ、アンナだって人間だし、何となくぼうっとしちまう日もあるのかもしれないけれど。いつも周りからユルイと評されるオイラがこんな事を言うのも変なんかもしれないけれど。…だけど、やっぱり気になっちまう。

アンナの表情が乏しいと――普段との違いはオイラにしか分からんと自負している――心配になる。オイラに話しかけてくれないから寂しくなるし、ビンタが来ないのだって、まぁこれは100%言い切る自信も無いんだが、物足りない。
――ん?何だオイラ、結局は自分が構ってほしいだけなんかも…。

ともかくそんな調子で一日ずっと空回りしてたオイラは、夕食の片付けを終えた時にはすっかり万策尽きてしまい、居間でいつもより更に興味無さげにテレビを見つめる彼女に、とうとう単刀直入に聞いたもんだ。

「…なぁアンナ。今日はどうしたんだ?」

アンナはゆっくりオイラのほうを向くと、変わらない調子で「何が」と言った。

アンナの、今までテレビを見てたのと同じ冷めたみたいな不思議な瞳の光。それがそのまま自分にも向けられて、まるでテレビと同じでオイラにも全然興味が無いのだと言われたように感じた。

だから、思わず近付いて、顔を覗き込んで真意を見極めようとして。そうしたら彼女の髪から香るやけに甘い匂いに頭がくらくらして、何とは無しに触れた頬も酷く優しくて離せなくなってしまって……つまりは現在の、こういう状況になってしまった訳なのだけれど。




「――好きだ。もの凄く」

囁いて口づけると、彼女はオイラの首に腕を絡めて強く引き寄せてきた。

…やっぱり違う、と思う。恥ずかしがるアンナは普段はこんな事をしない。オイラからの行動を遠慮がちに受け入れるだけ。愛の言葉をねだられたのだって、多分初めて。


一体どうしたっていうんだろう。
オイラには、分からない事なんかな。

キスに夢中になりながら、ただ一つ、彼女に嫌われていない事だけは確認ができて安心したオイラは、その他の詮索を放棄する。
引っ張られるように、畳の上に倒れ込んだ。



*



「――今日はどうしたんよ?」

痺れを切らした、というように。葉があたしに尋ねてきた時、やっと理解した。今日一日の、朝からの自分の行動の意味するところに。

「…何が?」

努めて冷静に、質問に質問で返す。部屋の入口で立ち尽くす夫に視線を送ると、彼の瞳が揺らぐように光った。

「…何が、ってお前…」

言いながら葉はあたしの前にしゃがみ込む。もはや条件反射的にのばされた手が、あたしの頬に触れたと思うと動かなくなる。

あたしは、そっと見上げる。目を閉じるのと同時くらいに口づけられた。

「――ん…」

離れてはまた重ねて、葉は幾度もあたしに触れる。いい加減に息苦しくなったところで聞いてやった。

「――あたしのこと、すき?」

滅多と口にしないストレートなあたしの要求に、葉が一瞬目を丸くして口ごもる。

「…おお。何だよ、珍しい」
「だって、あんまり聞いた事ないから」
「言わんくても分かるだろ。…知ってるくせに」
「そういうのを男の怠慢って言うのよ?子供も独り立ちして、定年退職した次の日に離婚届突き付けられるタイプだわ」
「…またえらく話が飛躍するんだな…」
「…そう感じてる時点で、もう危機感が足りてないのよ…」

『いいから早く言いなさい』と急かすと、彼は苦笑して、それから何故かやけに早口で囁いてから、またあたしにキスをした。




今日のあたしは何処かがおかしかった。
何がどうなのか上手く説明はできないのだけれど、朝からずっと。

しいて言うなら、夢見が悪かった。最悪な夢。目覚めた時には汗びっしょりで、吐き気までした。
けれど、所詮は夢の事。予知の力がある訳でもないあたしの夢は、単なる自身の不安の産物に過ぎない。ある程度いつもの事だから、耐性だって付いている。
ゆっくりと深呼吸を一回だけして、いつも通りの一日が始まる筈だったのだ。なのに。

起きてからも、吐き気は治まらなかった。熱を持ったみたいな頬と、時々ちくりと痛む胸。
そしてそれらは、葉が近くに居る時にだけ少し和らいだ。

風邪でもひいたかと心配した葉が傍をうろちょろするのを呆れた顔で蹴り飛ばしながらも、あたしにはずっと分からなかった。

不調の正体とあたしの態度。

それでも、単なる風邪なんかじゃないであろう事だけは感じていた。知っているどの症状とも違っていたし、葉との関係も説明がつかない。「これ」は、あまりにも敏感に彼の存在を察知する。
そして、あたしは酷く頑なだった――葉の顔を見ると楽になれるのなら、素直にそう言えばいい。言えば彼のこと、きっと一日中だって傍で看病してくれるに違いなかった。だけど、あたしのした事はまるで逆で。いつも以上の愛想の無さで彼を追い払った。
葉が何とかあたしの機嫌をとろうと、散歩に連れ出しても、三食全部をあたしの好物で埋め尽くしても、あたしは僅かな笑顔すら見せない。
怒っている訳ではないから、呼ばれれば返事だってする。だけど、近寄らせなかった。

あたしの異変に気付いて、葉は心配して困って悩んで…でも何をしても状況が好転しないうちに一日が終わってしまいそうな気配を感じると、流石に苛立ちがつのってきたらしい様子を見せ始めた。

それでも、あたしには分からなくて。

困らせたいんじゃないのに。怒らせたいんじゃないのに。
このままじゃ、いくら寛容な葉にだって、嫌われてしまうじゃない。


――キラワレテ シマウ?


ドクン、と胸が嫌な音を立てる。
瞼の裏側に、今朝見た夢が蘇った。

それは最悪な夢。

夢の中で、あたしは葉に拒絶される。
穏やかな瞳であたしを突き放して、去って行く夫。

――仕方がないんだ、オイラは鬼の子だから。
――仕方がないのね、あたしが鬼の子だから。

遠ざかる背中。瞬きをせずに見つめながら、あたしの喉からは声にならない叫びが溢れる。

――だけど、どうして。あんたは、そんなに静かに離れていくの――

穏やかに、あまつさえ微笑んで。
どうにもならないなら、せめて泣いて。
求めて叫んで、狂ってみせて。



「…なぁアンナ。今日はどうしたんよ」

大きくなり過ぎないように抑えられた声。だけどそこには、隠しきれない焦りの色と激しさがあるじゃない。


ああ。やっと分かった。



愚かなあたしは、あんたを、焦らす事で確かめたかったのだ――





唾液の撥ねる音が耳につく。舌を絡めて口内を貪り合う。お互いに発情してきたあたりで、首の後ろに回していた腕を引いて、縺れるように倒れ込んだ。

「…アンナ…っ…」

罠にかかった彼があたしを呼ぶ。
熱っぽく、何度も。――狂ったように。


耳元をくすぐる葉の唇。背筋には寒気にも似た感覚が走るのに、手で触れられている肌はとても熱い。

「――よう…」
「――ん…?」
「…きもち いい…」


またしても初めて口にした率直過ぎるその台詞を聞くと、彼は一際強くあたしの身体を抱き直した。

「――オイラも」



それから後、あたし達は二人とも言葉少なに、ただただ交わり続けていた。






やりたかったのはただ一つ、「嫁様に、なるたけ言わなさそうな台詞を吐かせよう」。最初と最後のがそうです。
散々引っ張ったくせに、肝心の悪夢の内容に説得力がありません。
考えるのが面倒で適当に「鬼の子」とか言わせてしまいました…


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