指で梳かれてはじめて、髪を束ねてくるのを忘れていたのに気づいた。
小さく点けられたルームライトが作るあたし達の影は、足元でひとかたまりになっている。
あわてていたからだ、と思った。一秒でも早く、彼の顔を見たかったから。声を聞きたかったから。
あと半時間ほどで日付が変わる。こんな夜中に連絡もなしに部屋を訪れて「眠れない」と告げたあたしを彼がどう思ったのかは分からない。
あたしは、ただもう、ここへ来ずにはいられなくなって、家を飛び出してきただけだった。
大事な舞台を明日に控えて、もしかすると迷惑がられるかもしれないことを覚悟していたというのに、彼があたしに与えたものは酷く甘くて。抱きしめられ、朝まで一緒にいてほしいと言われて、受け入れられた安心感は泣きたいほどだった。

「…キレイな髪」

耳元に落ちてきた声は、今までに聞いたことがないくらいに優しく響いた。肌が粟立つような感覚に思わず体が震える。

「い…、陽介くん?」

見上げた先にある彼の瞳、どこか懐かしく感じられるその光の下で、口の端が見慣れたいつもの皮肉げな形にニヤリと引き上げられた。

「いんこでいいよ。おれも、刑事さんって言っちゃいそーだから」

今の彼は、カツラもマスクも付けていない素顔だ。あらためて「陽介くん」と「いんこ」が同じ人物だってことに不思議な実感をおぼえながら、あたしは彼を見つめた。
彼が、腕の中にあたしを閉じ込めたまま「なに?」と、囁くように問う。さっきから、いちいち吐息が肌をかすめて、くすぐったかった。

「…なんだか、あんたが急に、その…、恥ずかしいこと言うから…」
「髪のこと?だって、もう黙ってなくてもいいからね。髪だけじゃないさ。きみは、目も鼻も口も、全部キレイだ」

胸の奥の辺をむず痒くさせるような台詞が、にっこりと幸せそうな笑みとともに返される。
自慢じゃないけど、あたしは今まで人に容姿をほめられたことなんかないから、ただでさえそういう言葉に慣れていないのだ。彼の口から聞けば、それは、なおさらあたしを動揺させる。
頬が熱くて、きっと今、自分は真っ赤な顔をしているんだろう。

「…そんだけ言われると、逆にウソくさいわ…」

一体どうして、彼がそんなに嬉しそうにあたしを見ているのかがよく分からないけれど…あたしは、また、からかわれているのかもしれない。

「ひどいな。おれは、きみが想像してる以上に、きみを好きなんだぜ」

熱い頬に、そっと彼の掌が添えられて、顔を引き寄せられる。こういう時にどうすればいいか分からない自分が少し悔しい。
まるでそこから心の中が見えるとでもいうように、じっと瞳を見つめられて、他にどうしようもなくなったあたしは、ただ彼のシャツを掴んだ手にぎゅっと力を込めた。

「そ、そんなの、想像なんてしたことないわよっ」

あたしの言葉を聞くと、彼はその目を楽しげに細めた。

「じゃあ、考えてよ。おれがどれだけ、刑事さん、あんたに惚れてるか――」

一瞬で、目の前に迫った彼の顔と、それから、唇に感じた熱。彼の伏せたまつげが長くてキレイだな、と思いながら目を閉じると、触れている感触だけが余計にリアルになった気がした。

(キス、してる、あたし達…)

そう思うと、頬はますます熱い。心臓がコトコトと速いリズムで拍動する。
この感覚を知っている。あたしは、二人で青い車を探した夜のことを思い出した。

「…二度目よね」
「えっ?」

少しして顔を離した彼に、あたしが思い付いたことをそのまま告げると、驚いたような声が返ってきた。

「さっちゃんをはねた車を、一緒に追いかけた日に…したじゃない」

あたしの言わんとすることに思い至ったらしい。彼がバツの悪そうな顔をして、あたしを見る。

「ああ…、殴られたっけ」
「しょ、しょうがないでしょ、すっごくびっくりしたんだから!」

焦って言うと、彼はまた嬉しそうな顔をした。
やっぱり彼はいんこで、あたしをからかって楽しんでいるんだ、と。気付いてジタバタともがいてみたところで、もう彼はあたしを逃がそうとはしない。

「…あの夜、きみの都合であちこちひっぱり回されてるってのに、おれは嫌になるどころか
 その逆でさ…もっと一緒にいたいと思ってたんだ。しかも刑事さんときたら 、
 そーいうのを自覚して参ってるおれの隣で、心細そうな顔して震えてるだろ…
 気付いたら、殴られてたってワケ」

「あれはっ…!寒かったんだってば!」

彼はふふ、と笑った。

「思い知ったんだ。おれはとんでもなくきみを好きだ、ってことを」

今日は、殴らないの?とからかう口が再び近付くのに、今度はちゃんと目を閉じるのが間に合う。ちょっとだけ、唇の温度に慣れたあたしに気付いたのか、彼は、今度は何回もついばむように繰り返した。

あの夜。彼が言うように、あたしは、本当は少し不安になっていたんだろう、と思った。
追っているのが初めに想像していたよりもずっと大きな事件だと分かって、おまけに、犯人は見たこともないロボットのような機械を使うらしいことまで分かって。
職場柄、それまでにも危ない目には何度か遭ってきたけれど、あたしはあの夜ほど隣にいる人間を頼もしく感じたことはなかった。
彼は、そんなあたしに気付いていたってことだ。そしてそれは、今夜だって同じこと。

(あたしを好き?とんでもなく?だって、ちっともそんな風に見えなかったのに…)

あの時、あたしがもう一度キスしてほしいと思ったこととか、それでも、こんな風にドキドキしているのは自分だけで、彼にとってはほんの冗談のつもりなのだ、と思って、ガッカリしたこととか。
胸のうちに過去の感情が次々と再生されては、彼から与えられる度に一つづつ、その熱に溶けていく。

(ごまかすのが、うますぎるのよ…いっつも、ポーカーフェイスなんだから…)

相手の体温を感じるってのは、どうしてこんなに安心するんだろう。
夜が明けてから起こるはずのいろんなことは何一つ解決したワケじゃないのに、触れる唇と背に回された腕が、無条件であたしを落ち着かせていく。
望めるなら、それが彼にも同じであるように。

息苦しさで頭がくらりとして、それ以上は考えられなかった。予測していたかのように、彼の腕が、ぐ、とあたしの体を支える。

「…いんこ」
「なに、刑事さん」
「大好きよ」

頭の中に最後に残った言葉を吐き出して目を閉じると、彼が小さく息を飲む音が聞こえた。
あたしだって、嫌ってほど思い知らされたんだ。どれほど、自分が恋をしているか。
目を開いたら、彼は一体どんな顔をしているんだろう。
あたしをほしいって言ってくれたさっきにチラッとだけ見えた、役者でも幼なじみでもない新しいあんたが、そこにいるといいと思う。
纏うのがうまい仮面の下を、見せて。
祈って、あたしは目を開いた。




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お題提供:Junk Heaven様(好きだから5のお題)
いちゃついてる二人の会話が書きたかった。
どちらでもあってどちらでもない感じを出したくて、
いんこと陽介の口調を混ぜてみよう、と思ったんですが…
9割方いんこですね!趣味が押さえ切れなかったようです。

06.10.2



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