それより先は危ないから、墜ちないように 囲いをするの。




012:ガードレール




「アンナぁー」

今日も。
背後から あたしの名を呼ぶ愛しい亭主の声。読みかけの本が手の中でパラリと音を立てた。

「修行、終わったぞ」

そう言いながら、葉はあたしの隣りに回り込んで腰を下ろす。

成長期なのに加えて毎日あたしの修行メニューを真面目にこなしているせいもあってか、近頃ぐんと頼もしくなった葉の身体。
タオルで拭ってはいるものの、僅かに届く汗のにおいに 近さを感じてドキリとした。

「…そ。じゃあ 夕飯の支度、宜しくね」

あたしは できるだけ素っ気なく。視線だって動かさずに返事をする。これだってもう、習慣みたいなものになりつつあるのだけれど。

「…」

パラリ。

「…」

パラ パラリ。

「…早く、行きなさいよ」

――やっぱり、今日も。

「ん?…おぉ…」

返事だけはするくせに 動こうとしない。

あたしは本を閉じて目に力を込めると、へらへらと微笑う葉を睨み付けた。


「――ちょっと あんた…」


瞬間、待っていたとばかりに 彼の目に悪戯な色が煌く。

しまった。

そう気付いた時には 既に遅くて。


「やっと こっち向いた」


体の向きを少し変えただけなのに、もう包み込まれていた。


「――やっぱ、アンナは抱き心地がいい…」

呟くように言われ、肩口に頭を埋められる。きつくはないけれど、けして逃れられない 腕。

「…人を抱き枕みたいに言うんじゃないわよ。それに、夕飯の支度してって、言ってるでしょ」

あたしがなけなしの理性を振りかざしても、この男には何の効果もないらしく、葉は表情をユルく崩したまま、逆に瞳を覗き込んできた。

「ちょっとだけ休憩 な?」

――軽く眩暈。
深く澄んだ黒い瞳に 思考回路が危うくその職務を放棄しそうになる。けれど、ここで負ける訳にはいかない。――負ける?誰に・何に?


「…っあんた、最近ずっとそうじゃないの」

――仕事が一つ終わる度に、じゃれてきて。

睨むあたしの視線をさらりと無視すると、葉は

「おぉ。だけど…いいだろ?」

遊ぶように、あたしの髪に指を絡ませた。

――何がいいのよ、このお馬鹿。

あたしは 上手く動かない自分の唇に絶望しながら、心の中で毒づく。

「アンナ」

――ほんとにお馬鹿。

「愛してる」




"あんたはシャーマンキングに、あたしはその妻になる為に"
やらなきゃならない事は、まだまだ有って。

ねぇ、こんな事してる暇なんて、本当何処にも無いのよ。
無いのに。

越えてしまおうと。

二人で墜ちてしまおう と。

優しい声は耳元で誘惑する。


あたしのやせ我慢、あんた知っててからかってるんだわ。




「…はい、もう いいでしょ。休憩はおしまい」

あたしの唇を思うまま味わっていた旦那をやっとの思いで引き剥がすと、彼は名残惜しそうな目をしてみせた。

「そんな顔したって、駄目よ。さっさとする!」

火照った頬を隠す為に傍らの本を再び開く。
説得力に欠けるかしらと心配になったけれど、彼は短く返事をして、立ち上がった。


「…ウィ。んじゃ、行ってくるかな」

「――買物?」

「ああ。今から行くと、丁度タイムサービスに間に合うんよ」

急速に色気を失っていく会話と 遠ざかる背中。
安堵しているくせに 寂しいような気もするなんて、なんて矛盾。

「…アンナ。何か食べたいもんとか、あるか?」

思い出したみたいに振り返って尋ねる葉に、取り戻しつつある冷静さを総動員して あたしは答えた。

「何でもいいわよ。あんたの好きなものにして頂戴」



『…そういう答えが、一番困るんだけどなぁ』

そんなぼやきと苦笑いを残して 葉が部屋を出て行った後で、やっと。あたしは大きく息を吐き出した。

「全く、困った癖がついたものね…」


――もしかしたら 困っているのはあたしだけで、葉にとっては問題ない事なのかもしれないけれど。

あたしはただ、自分が溺れてしまう事を恐れているだけなのかもしれないけれど。


だけど やっぱり


――それより先は 危ないから、墜ちないように 囲いをする――



「アンナ」

「な?!何よ葉、まだ居たの?」

不意打ちの如く 再び葉が現れる。
すっかり油断していて思わず声を裏返らせるあたしに、襖の向こうから顔だけを覗かせた愛しい夫は にっこりと微笑んだ。


「お気に召す夕飯しが作れたら、またご褒美 な」

「お馬鹿!」



調子に乗る彼を、一応は式で張り倒しつつも。あたしの胸には切羽詰まる危機感が広がっていく。


――もう そう長くは保たない。そんな 覚悟を伴う 甘い予感。


撤去間近の ガードレール。






キミの心のガードレール、壊してみせるぜGET YOU!ってな訳で。
ばんがれ葉さん、もう一押しです!!


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